総院長 寺川一秀 月~土 12:30~18:00
私のポリシー
・その場で痛みを大幅軽減させる事。
・治療回数を極力減らす事。
・治療総額が安く済むこと。
・確実に健康になってもらう事。
・いい情報を教えられる勉強を毎日かかさない事。
・人格者である事。
メディア等ご紹介
以前取材された本「腰痛解消!神の手を持つ12人」。 日本全国、治療上手な先生を12人探して編集したらしい。「寺川先生が一番人気です!問い合わせで先生の名前が一番多く出てくるんです。」とは編集者の弁。ありがとうございました。 しかし、この本が完売したことから、出版社はさらに12人探し出し、その次には18人を掲載し・・・・。神の手が48人も(笑)。
週刊女性自身が取材に来たことが2回。 一度目は記事を読んで編集部に腰痛が治りました!と感謝の手紙が多数来たらしく、数年後また取材したいと。 その際は当院にも4通、肩こり腰痛が消えましたと丁寧な感謝状が来た。読むだけで治るのが肩こり腰痛です(笑)。
私が現在に至るまで
1966年8月11日 福岡県糟屋郡新宮町 寺川了禄・靖子の長男として3800gの巨大児として生誕。泣き声の大きさは語り草になったらしい。「大きく生まれ、小さく育った。」とは母親の弁。
~幼少時~
幼少から、チャンバラや基地作り、探検が大好きで、野山海を駆け巡る野生児。腰にはいつも棒切れを刀として差していた。
新宮幼稚園時にはその正義感の強さが、早くも目覚め、仮面ライダーかバロムワンになりたかった。
新宮小学校5年生時、具志堅用高が世界チャンピオンになったのを見て、具志堅を破って世界チャンピオンになることを夢見、パワーリストを買うが、ブカブカ。まだまだ腕は細かった。
小学5~6年生は無遅刻無欠席の健康優良児。
夕刊配達始める。
今でも親交ある、伏見先生が担任してくれる。初恋のNさんがいて、楽しい楽しい小学校だった。
~中学~高校時~
新宮中学では身長を伸ばしたいからとバレー部に入部。しかしその夢は叶わず、クラスでずっと一番前。あと1m身長が伸びてればギネスブックに載れたのに。と思う。
朝刊配達に変わる。
中学2年時、具志堅用高が破れ引退し、目標を失う。失意のズンドコ。悪い友達が出来始めるが、自分はタバコをくわえたことも無い。だって、ボクサーになるから。
愛しい愛しいNさんに3回もアタックするが、ことごとくフラレル。
高校受験はボクシング部ある私立東福岡に行こうと目論むが、親の懇願で地元の県立新宮高校(偏差値64)も、とりあえず受験。なんと、合格してしまい、目論みは失敗。 合格できない 偏差値の高校だったはずなのに。 何事にも全力を尽くす性格が災いした。メッチャ真剣に受験勉強してしまったから。
私は運が良いんだろうな・・。
高校は、私立は却下され、地元新宮高校へ。目標がなく、ちょっと腐り、遅刻欠席常習者となる。 が、世界チャンピオンになる夢は捨てずに、体を鍛えるために極真空手を始める。
バイクに目覚め、スズキのRG250γを新聞配達のアルバイト代で購入。しかし、貧乏でガソリン代がなく、なかなか乗れない。バイクにガソリン代がかかることを始めて知る。
もちろん暴走族には入ってない。
その時の担任田中先生は、後に一生涯の道を教えてくれる。 しっかし、よく職員室に呼ばれ、説教された。ただし、「卒業だけはしろよ!カンニングはするな!夢は絶対捨てるなよ!」だけ。実にウマが合う先生だった。が、後年、先生のガンを私が見つける。あの時はガックリした・・・・・。
~高校卒業~社会人~
高校卒業後は、プロボクサーになるために、さいたま県のボクシングジムに内弟子として入るが、ヤクザジムで、「会長のボディーガード」をさせられる。 しかも、腰を壊され、夜逃げする。先輩から、「お前は逃げろ!殺されるから!」に合意して。
帰郷後、腰の治療に入るが、その時に恩師田中先生に「整体と云うものが腰痛治療に良い。」と教えられ、連れて行ってもらい、整体の存在を知る。ただし、下記に書く、疑問付き。
福間スポーツジムに入会、心機一転ボクシングを再開するが、すでにプロの世界には興味が尽きていた。 ここの後輩の越本は後に世界チャンピオンになる。こいつはカッコイイ!人間的にも尊敬。
しかしまあ、腰痛とはかくも痛いものなりか?夜中に足がツって目が覚めるわ、痺れるわ、歩けないし、自由に動けない。 あの時代の苦しみは今もよ~く覚えている。 病院は、「ボクシングやめればそのうち治るよ。」「やりながら治す方法は無いんですか?」「無理だね。」 (な~んだ、あの先生知らなかったんだ。スポーツしながら十分腰痛は治ります。今だから分かるのだが・・・(笑)。)
その後、田中先生の勧めで電気専門学校に入学。微分積分ベクトル因数分解の未知の数学世界へ。電気は難しかぁ~・・・・。 でも、猛勉強して、エリートのみが紹介される、九電関係の会社を受験、なんと合格!私は運が良い! でも、なんと、友達の親父が偶然部長をしていて、「親父のコネで入れてくれたとよ。」と友達から聞かされ、勤労意欲が落ちる。実力で入れたと思っていたから。やっぱ運が良い。
入社後、サラリーマンというものを観察するが、こりゃイカンと思う。目指すものが無い生き方はツライと、自分の生きる道を探し始める。だって、元は世界チャンピオン目指して生きてたんだから。
~生涯の恩師との出会い~
会社に届いた雑誌に「カイロプラクティック学びませんか?」の広告を発見。これが生涯の師との「劇的な出会い」となる。 「カイロプラクティック・・・、そういえば、俺も行ったよなあ~。ちょっと面白そうだから、見学行ってみよう。」 「こんにちは、私が脇山です。」 なんと、具志堅用高に顔もしゃべり方も髪型まで似てる!!!!憧れの具志堅が目の前に!劇的!
カイロプラクティックで一体何が出来るか!それが分かった日。ものすごい感動と興奮が襲ってくる。 あの日の事は今でも忘れない。 ついに道を見つけた! 自分の生きる道はこれだったんだぁ~。叫びたい衝動。数日間興奮状態が続く。眠れない!
が、しかし・・・・・学費が払えない。怨めしい安月給・・・・。 諦めてこのままサラリーマンを続けるしかないのかぁ・・・・。とりあえずは安定した会社だから・・・。無理やり自分を納得させる。
「脇山先生、すみません、見学させていただきましたが、今はまだ学費が用意できないので、断念させていただきます。お金が貯まったら、必ず教えを受けに参ります。カイロプラクティックに自分はものすごい感動をして、熱い思いで一杯になっています。自分が進むべき道を見つけました。 が、今回はまだ入学する事が出来ません。申し訳ありません。」と手紙をしたためた。
~転勤命令~
「寺川、来週から大分の現場に転勤な!」「は?は?は?はぁ~~??現場って何すか?」「現場の仕事を見て来い。」「イヤですよ!いつまでですか?」「うるさい!上司の命令たい!半年くらいたい!」「・・・・・・・・。」「は、い・・・。」 こうして、私の意見も聞かずに転勤させられる事になる。現場は月二回、日曜のみ休み。朝6時半から夜12時まで仕事。 まあ、これはこれで私は何でも楽しむクセがあるから、楽しく過ごせたのだ。大分は意外と楽しかった。 しかし、未来を考えた。「こ・れ・で・い・い・の・か? い・や・よ・く・な・い。な・に・か・し・く・ちゃ。」
~師から偶然の電話~
月二回の日曜の休みの実家での夕食時間。晩飯食べて福岡から大分まで帰る事にしていた、まさにソノ日。 「脇山ですが、寺川君はご在宅ですか?」「お兄ちゃん、脇山とか云う人からよ。」
まさに偶然!数分後には会社に戻るところだった。
「な、な、な、なにぃ????は、はい、もしもし、寺川です。」
「ああ、一度うちに見学に来てくれましたね。 あのときに、初めて熱いお手紙頂いて、こんな丁寧な人見たことなかったから気になっててね。 君の先輩がいなくなるからうちで働きながらカイロプラクティックを学んでみない?」
「仕事やめてですか?」
「そういうことになるね。給料もわずかしか出せないけど。」
この電話が私の人生を一転させたのだ~! 脇山先生ありがとうございました~。 私はすごく運が良い! 「行きます!!行きます!!喜んで!!ありがとうございます!!」
「何の電話ね?仕事辞めるって?」と母親。「脇山先生がうちで勉強しないかって!!」と興奮冷めやらず。「何言いようと!!!仕事辞めるなんて!!!簡単に決めんと!」「イヤ、俺は行く!自分の未来は自分で決める!!」「何のために学校やったのよ!!」 この後、数週間、親族会議が始まる。
「国家資格も無い仕事なんて!」「週刊誌にカイロの害が書いてあった。やめとけ。」「今の会社は安定してるんでしょ?辞めときなさい。地道に生きなさい。」 おじさんおばさん、喧々囂々、猛反対の嵐、誰も賛成してくれない!
「俺はオリンピックドクターになりたい!!アメリカの五輪選手は全員カイロドクターがついてるんだ!俺もなる!」「日本ではカイロはドクターじゃない!!!!何の資格も無い!!!」 「俺が第一号になってみせる!!」「無理無理!!絶対無理!!やめなさい!」 人がやらないことは、反対するのが我が一族の慣わしらしい。
楽しい事もたくさんあった九州電技開発株式会社。今はみなさんどうしてるかなあ。HP見ると社員数が半分以下になってるけど。あの時の先輩達はリストラにあったんじゃないのかなあ・・・・・。
~カイロプラクターへの道~
「脇山先生よろしくお願いいたします。」
「うん、頑張ってね。」
それからである、私の怒涛の人生の始まりは。 師が考える治療院作りに応えるために猛勉強の日々。受験でもここまでやったか?
毎晩、朝4時まで勉強し、7時に起き8時前に治療院へ行き、掃除と勉強をして師を待つ日々。
一日40人以上の患者を治療し、夜8時過ぎに終ると、師との練習が待っていた。
本当にありがたい。先生の一日の疲れを癒して差し上げ、自分の技術習得に体を貸していただけるのである。
本当に感謝しました。お陰で私は従来の好奇心の強さとボクシングで養った馬力でグングンと吸収させて頂いたのである。
~先生付けで呼んでもらえるなんて!~
「寺川君、これから自分の事は先生と呼ばせてもらうよ。」数年たったあるとき、先生が言い出した。
「イヤ、先生、ボクを先生なんて呼ばないでくださいよ。コソバイですよ。」
「いや、寺川先生には感謝してるよ。お陰でうちの治療院は僕の理想の治療院になってる。患者さんからの信頼も厚い自分は先生と呼ぶにふさわしいから、自信を持ってこれからもやって頂戴ね。」
あの日の感動は忘れない。 一体、弟子を先生付けで呼ぶ師匠がいるのか?
認めてもらえる日が来たのである。猛勉強の甲斐があった。
「僕らはカイロ界のトップリーダーだから、格調高い技術と知識で喜んでもらえるよう常に勉強を続けて人を大事にしよう。」
~O脚矯正の特許取得!~
「先生、O脚矯正のアイデアがあるんです。」私はずっと、O脚矯正の研究をしていた。
「うわ!それいいね!いいね!特許とろう!」
「本当ですか?」
「イヤ、これは特許取れるよ。出願しよう!」
こうして私は脇山先生とO脚矯正に関する特許を取得したのである。2件も。
まさか自分が特許取る日が来るなんて! 私はなんて運が良いんだろう!
ただしこの特許は売却してないから一銭にもならなかったけどね(笑)。
~教え子150人以上!!~
そうこうして20代は瞬く間に過ぎていった。ホントに一瞬。脇山先生の技術と知識は素晴らしい。だって、日本で5本の指に入る方なのだ。アメリカのカイロプラクティック専門大学をあの時代に卒業して、専門書まで日本で出版されている。講演回数も半端なものではないのだ。
「寺川先生、月の半分の授業を受け持って。生徒の教育は任せた!」
「何ですとぉ~。私が授業ですか!?」
「大丈夫、できるから。やりなさい。」
「アイアイサー!!」と言うわけで、カイロの授業を受け持つことになったのだ。 みんな開業目的で来てるから真剣。
しかもまだ私は20代前半。目上の人を相手に一生の技術を教育する事になったのだ。もうこれはうかうかしてられない。
猛勉強にさらに磨きをかけた。今度は教える事が主眼。教え方は大事。自分が分かってるだけではダメである。
分かりやすい言葉で難解な医学用語を駆使していかねばならない。これは実にためになった。
教えることって大事ですね。現在立派な先生になってある方多数なのだ。
そうして教えてきた、生徒は150人はゆうに超える。
~バレた!!!~
私は日々研究していた。最速で治るテクニックを。私は弟子の分際であるからして、師の治療前に患者さんのマッサージをするのがお役目。
しかし、世界中から集めた情報をもとに俯せの患者様に対して、密かに色々なテクニックを開発して試していた。それが、ついにあるとき脇山先生にバレた!
なかなか治らずにかなり通院していたある患者さんが、「脇山先生、あの若先生に腰押してもらったら、痛みが消えたけん、もう治ったみたいですから、もう大丈夫です~♪」と先生に言われた。
「あぁ、そうですか。それは良かったですね。では、また再発したらどうぞおいでください。」先生は笑って言われた。
そして、ギロッ!こっちを見られて言われた。「自分!どんなことしたわけ?あの方はなかなか今まであんなにすっきりとした顔で帰られたことなかった人だが。なにをした?」
「あのぉ~~~・・・これこれこんな風にして、こんな反射が現れたらこうしたら痛みは取れると思いまして・・・・。」
「なるほど!それで最近、急に患者の治る率が急上昇してきてたわけね?それって、今までにない治療法やね!よし!それも特許取ろう!」
「と、と、特許!!!」
まさか、自分の開発したテクニックで特許まで取れる可能性があったとは!O脚矯正は自信があって分かっていたけれど、痛みを取るテクニックまで!私はやっぱり運が良い!
けど、これは結局は、弁理士さんからテクニックでは取れない機器を作らないといけない。と言われて二人ともがっかりして弁理士事務所を後にした。
あぁ、懐かしい。
~独立、結婚~
「寺川先生、うちはもう給料払えない。自分の価値はもっともっと高いところにある。うちが出す給料では申し訳ない。独立してくれるか?」
「イヤ、そんな。僕は給料なんかどうでも良いですよ。自分を高められる機会を頂いてて、患者さんが喜んでくれれば。」
「イヤイヤ、そういうわけにはいかない。もう十分すぎるよ。時期は来たよ。今までありがとう。でも、生徒の授業は続けてくれるかい?」
「それはもう当然です。・・・・・・お世話になりました。」
こうして独立の日は突然やって来たのである。7年以上経った、30歳の秋のことだった。 大名で10坪の小さな小さな治療院を作った。
「独立する事になった。」「あら良かったじゃない。」現在の妻が言った。
妻はうちに美脚矯正に来て出会った美女なのだ。独立をキッカケに一気に結婚話が進んでしまったのだ。
~脇山先生脳卒中に~
「先輩、脇山先生の様子が変です!」後輩から電話があった。なんとクモ膜下出血であった。
緊急手術。ICUにて意識不明の重体。
「寺川先生さんって居られますかぁ?至急ICUに入ってください。脇山さんが呼ばれてます!」
看護士さんに呼ばれた。
意識不明の先生はうわ言で私の名をしきりに呼んでくれてたらしいのだ。御家族よりも先に。
手術は成功し、1ヶ月の入院に。その間、私は師の治療院を代理で開ける事に。自分の治療院は閉めて・・・・。これも恩返し。
もちろん給料なんかいただけない。先生はICUと手術に莫大なお金がいるのだから。
しかし、これは痛かった。家賃やその他の経費は払わねばならないのだ。苦しかった。
開業すぐでお金はどこにも無いのだ。
幸い、一ヶ月で先生、復帰された。私は運が良い。
あと、1ヶ月伸びたら終ってた。 結婚式にもご出席いただいた。
~ボクササイズやろう!~
あるとき閃いた。「ボクササイズ教えよう。」女性のボクシングダイエットジムを作ることにした。大名内で移転。
すごくお金がかかるので銀行から借金した。これが後の災いを招く事になるとわぁ~。今でも支払い中(笑)。
たくさんの会員さんと楽しい日々を過ごす。何せ、元ボクサーなのだから得意分野。
日本一広い治療院になった!
~ヤワラちゃんとの出会い・夢の実現!~
「うちの娘診てくれませんか?」
「良いですよ。」生徒の一人、田村さんから話があった。
「コ~ンニチハ~♪」「うわわっ!!や、やわらちゃん???なんで??あ!田村さんって。」
当時田村亮子選手、ヤワラちゃんとの出会いだった。
お父さんはヤワラちゃんを自分で治療するために勉強に来てあったのだ。
福岡国際女子柔道選手権の前日であった。
「体がすごくよく動いたよ。」と言うことで私はヤワラちゃん側からシドニー五輪で金メダルを取るチームにと言われ、チャンス到来!
夢にまで見ていたオリンピックドクターのチャンスがやってきた!今まで学んできた事が全て認められた思い。嬉しい!
それから、うちのボクササイズジムではヤワラちゃんが練習しに来る事になったのだ。 結果はご存知の通り!
天才を間近で見ることに!天才は全然違うのだ!スゴイ人を見た~!ものすごい経験。ヤワラちゃんありがとう!
夢は叶ったのだ!私はものすごく運が良いですね~♪
~メジャーに行ったピッチャーの方が!~
高校の親友がプロ野球のピッチャー連れてきた。脇腹傷めて投げると痛むという。
良い結果で治って行かれたら、翌年、何とメジャーに入団されてびっくりした!
そこそこ活躍もされて、嬉しかったねぇ~。
~移転、心機一転~
ボクササイズジムの維持は難しかった。やってけない。ドンドンドンドン貧乏に!楽しい日々は続いていたが、惜しまれながらも閉館。なんと天神に移転する事に。
それが以前のつくしビル。場所的にも良いところが見つかった!運が良い!
しかし、古くて狭いこと狭いこと。今度は日本一小さな治療院になった。
~宝塚女優さんが!~
ある時、宝塚の友人から紹介されたタカラジェンヌが福岡公演に来ると聞いていたら、連絡があった。
「数名で治療行かせていただいていいですか?」
なんとトップ女優さんも一緒に来られた。もちろんサインいただいた。写真はNG。
宝塚女優さん、オーラがすごいね~。
~脇山先生の死~
「寺川先生。胃癌になっちゃったよ。手術するから。」
「はあ????」
まさに突然。脳卒中から3年くらいか?立て続けに死の病気に見舞われたのだ。あっけなかった・・・・。
先生、ありがとうございます。今私があるのは全て先生のお陰です。毎日思う。
今でも昔の楽しかった日々を思い出すと胸が熱くなる。
~再度移転~
つくしビルは狭すぎて古すぎた。なのに家賃は相当なものだった。やっぱり日本一小さな治療院は、やれることが制限されるね。
再度、移転を決意!するとやっぱり私は運が良い!現在の第2プリンスビルに、3倍の広さで半額以下の部屋が見つかった!
プライベートジムが充実! ボクシングジムほどの広さはいらないから丁度よい!
~超有名女優さんと~
ある超有名美人女優さんのお姉さんと知り合いだったため、お芝居に博多に来られると聞いて、見に行くと、女優さんの一人が腰を痛めているとお姉さんから連絡が来た。
「楽屋に来て治療できませんか?」なんと!楽屋に通された!!うわぁ~美しい!この世にこんな美しい人っていたのか!さすが美人女優さん。
タカラジェンヌとはまた違った、神々しいまでの美しさ。
おっと、治療治療。「先生、この子お願いします。すごく痛がってるんです。」「はいはい!あ、ここが痛むのね?OK~、すぐ治るからね。」
「また後で様子見に来ますから、お願いします。」「・・・・・・はい立ってごらん!」「あああああ~~~痛くない!痛くないですぅ~~♪」
「再発したらそれやればすぐ痛み消えるからね。」「ありがとうございましたぁ~~♪」
しばらくして・・・、「あれぇ~~立ててるじゃない?え?え?もう痛くなくなったの??うそぉ~~~!!」
ということで、何度か皆さんでうちに治療に来られることになった。
何度も一緒にお食事にも誘っていただいて、私はほんとに運が良いなぁ~♪
しかし、神々しさまで感じる美女っているのね~。目が合うと目がつぶれるかも(笑)。
~サッカー日本代表選手が~
サッカー日本代表選手のお母様と知り合いだったため、電話がかかってきた。「息子がひざを痛めたんですけど、どうすればいいでしょうか?」
「電話代わってください。・・・・初めまして、寺川です。そうですか、じゃ、ひざのちょっと下の部分を押さえて動かしてみて。痛みが減るから。」
「減った?OK、じゃ、次は外側の部分を押さえて・・・・。減った?じゃ、それをやればその痛みはすぐ明日にでも治るから大丈夫よ。」
以来、東京で会ったり、ヨーロッパに行かれてる時はテレビ通話でアドバイスするようになりました。
出会いって不思議~♪ ホントに縁ですね。
~スポーツ整体協会設立!~
東京オリンピックがある!日本選手には絶対メダル量産してほしい。
最高のコンディショニングで試合に臨んでほしい。選手はみんなうちに来ればいいのに。
スポーツはケガとの戦い。しかし、実は、意外とすぐ治るケガでも、長期休養させられたりしている。「こりゃぁいかん!俺がひと肌脱がないかんやん!」
てなわけで、私の知識を学んで選手たちに伝授してくれる人を育成することにした。
「スポーツ整体協会」 そこで私のテクニックをマスター人たちに送る資格を「スポーツ傷害アドバイザー」とした。
現在、少しずつ受講生も増えつつあるけど、まだまだ足りません。もっともっと確実に選手をケガから救える人を育成しなくっては!
受講生募集してます! 興味ある方はこちらから
~ニューロ・キネシオロジー編纂~
私と脇山先生は世界中から膨大な量の治療情報を集めた。そこからある法則を見出し、技術を作り出した。
それを私たちは「ニューロ・キネシロジー(神経運動機能学)」と命名。
従来の小難しい理論を打ち砕く、簡単で効果絶大、説明を受ける患者さんも専門知識なく理解できる治療法を編纂した。
できるだけシンプルで分かりやすく。しかし、効果を確実に体験できる治療法。
患者さん自身が自宅で自分で治療出来る技術を確立。
この方法にて当院の治癒率は日本トップクラスになった。
「格調高い技術と知識をより多くの人に提供したい。確実に治し、再発して欲しくない。その患者さんの意にそぐわない治療情報であろうとも、私は最高の情報のみを提供する事!真剣、本気、誇りを持つドクターであること。」とポリシーを持つことにした。
多くの治療を受けて来られた方々は、私の他とは全く違う治療法に困惑する事もあるでしょう。
時々、「よそではそんな事言われなかった。そんなこと初めて聞いた。」と言われます。 しかし、私は自信を持って、最高の情報を提供いたします。
「早く、安く、苦しまずに、すぐに治るために。そして、二度と再発しないノウハウを、あなたに。」 最高の施術と治療情報を提供します。これがテーマ。
こういう考えに及ぶには、過去に経験した強い疑問があるんです。
~私の経験した疑問~
疑問が残る二つの経験。
1、私自身が例のせいで重い腰痛で整体に行った時、自分で治す方法を聞いたにもかかわらず、「自分だけじゃ治せんから。」と、何度も何度も連続通院させられた事。
お陰で財布はすっからかん。連続通院しても、数日毎の通院でも大して結果は変わらず。
完治したのは、数年後、私が勉強して、自分で治す方法が分かったからだった。
2、経営セミナーにて、「先生方の経営は厳しいですね?患者の奪い合いで潰れる治療院が続出しています。 患者数を増やすには、患者さんには治す秘密を全部は、教えないこと!すぐ治すと収入減ります。情報は小出しにしながら治療すると、患者さんは分からないから、何度も何度も数多く通院するから、先生方儲かります。患者さんが見たことも無い、専門機械等も取り入れましょう。 それだけで何も分からない患者さんは信用してしまい、何度も通院して来ますよ。」などと教育されていてビックリした事。
患者をうまく騙せば儲かりますよと言うのである。
すぐに治せるところを倍の通院させれば倍儲かると言うのである。
演出効果だけの機械を入れると信用してしまう。と言うのである。
そりゃ、違うでしょ?
秘密を全て教えてしまうと、患者さんの通院回数が減り、減収になるために、もっともらしい、ある程度のことしか教えてはいけないことなのです。
治療情報は患者さんには見抜けないでしょう。これは正しい事でしょうか?喜ばれることでしょうか?
これが疑問。
「ボクは、自分がして欲しかった事を、患者さんにしてあげられる、良い治療院を作ろう。」
以上、現在に到るまででした。
私は、痛みや不調を、その場で取り、総額が安く、早く良くなる、施術を心がけていますが、もっと大事なのは、「もう二度と再発しない身体になる事」と考えます。
是非、最高の健康を得る方法を学び、健康に自信がもてるようになってください。
皆さんは、私にしか出来ない技術と知識で健康を取り戻せます。
大丈夫です。安心してお出で下さい。健康に関するどんな事も相談に乗ります。